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2007年12月22日 (土)

独法改革惨敗、渡辺は辞表をたたきつけるべきだった

行革と金融を担当する内閣府特命大臣、渡辺喜美の父、美智雄は栃木弁まる出しの“ミッチー節”が持ち味だった。どんな言葉が飛び出してくるかわからない。

「アメリカには黒人やヒスパニックなんかがいて、金返さなくても良いアッケラカのカーだ。」
「日教組には頭がおかしい先生がたくさんいる。」

今こんなことを言う政治家がいたら、大変な騒ぎだろう。安倍前首相の父、晋太郎のライバルとして、ともに総理の座をめざしたが、なんという運命か、二人とも病に倒れ、志を遂げないまま人生を終えた。

地盤を引き継いで代議士になった渡辺喜美は、父親譲りなのか、歯に衣着せぬ言動が目立ち、派閥にも所属せぬ一匹狼だった。二才年下の安倍晋三が総理だった06年12月28日、佐田玄一郎の後任として、 副大臣から規制改革担当大臣に昇格した。

渡辺は、このときから父の果たせなかった夢、すなわち総理大臣への道を強く意識するようになった。

渡辺にとって、独立行政法人改革は天から与えられたチャンスだった。世間の関心が高い霞ヶ関改革をやり遂げれば、親しみやすい彼のキャラクターからいって国民的人気は飛躍するはずだ。

ところが突然、予期せぬことが起きた。安倍の総理辞任である。霞ヶ関改革に執念を燃やしていた男の、政権からの退場は、渡辺の置かれた状況を一変させた。

福田政権は、安倍内閣を形だけ引き継ぎながらも、実態は「霞ヶ関」との“なれあい関係”復活をめざすものに変質していった。渡辺は明らかに「はしご」を外された。孤独の闘いになった。怒り、苛立ち、焦り。内心に渦巻く感情をおさえながら、独立法人の整理統合化を一つでも多く実現するために踏ん張った。

しかし、結果は惨憺たるものだった。はっきりいって、今回の独法改革は完全な「骨抜き」といえる。数の上では101法人を86に減らすことになったが、中身はたいしたものでない。とくに改革の目玉となった都市再生機構について、冬柴国交相の猛烈な反対により3年後に結論を先送りしたのは大きなダメージだ。

渡辺にはここで、辞表をたたきつけるくらいの気迫を見せてほしかった。福田首相や町村官房長官の顔をつぶしてもいいではないか。自分のことより国のことを考える政治家をだれもが待望しているのだ。自民党内での出世や自己保身が少しでも頭にチラついたとしたらその時点で、負けである。

小泉純一郎も派閥に属してはいたが、変人といわれ、一匹狼だった。それでも、政治経済にに護送船団や付和雷同をのぞまない時代の風潮と、この国の変革への民の期待にマッチし、総理となり、旋風となった。

何事も徹底である。渡辺らしさが、十分に発揮できないまま、独法改革の決着を迎えたのは返す返すも残念だ。

渡辺は「合格点くらいはいただけたのではないか。私の使命は果たすことができた」と独法改革の成果を総括するが、この発言は余計だった。 

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、である。

                            (敬称略)

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