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2008年8月12日 (火)

朝日の「ダルビッシュと日の丸」に物申す

今朝の朝日新聞に「ダルビッシュと日の丸」という記事が掲載されている。執筆者は編集委員、西村欣也氏だ。

西村氏は、五輪に国家主義的なにおいがたちこめるなか、ダルビッシュのこの言葉に救われたという。

「日の丸は僕の中では絵でしかない。何も思わない」。

これ自体は素朴な若者の発言であり、とやかくいうことではない。だが、国旗に対する西村氏の認識には、いささか疑問を感じる。

西村氏は五輪憲章の「オリンピックは選手間の競争であり、国家間の競争ではない」という一節を持ち出して、日の丸の重みを否定する。そしてダルビッシュ投手は「日の丸の重みなどに負けず、ボールを言語として野球というスポーツを戦おうとしている」と決めつける。

2007年7月に発効したオリンピック憲章で前掲の文章を探すと、17ページに見つかった。筆者はそれを確認したあと、10ページの「オリンピズムの根本原則」の項に目を凝らした。そこには、このような言葉がある。

「その目的は、人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することにある」「それは五大陸にまたがる(中略)シンボルは、互いに交わる五輪である」

根本原則は、五大陸にまたがる世界の国々がお互いにオリンピックを通じて交わり、平和を推進しようということを謳っている。それぞれの国が、お互いの民族や文化や宗教の違いを認め、尊重することが基本にある。

違う人、違う国、違う文化。「違い」がなければ「平和」の概念などないだろう。「違い」があるから、「信頼」が大切になる。

国旗は、その「違い」を表現したものだ。西村氏が強調するように「日の丸はただチームの象徴であるだけだ」とは思わない。国旗や国歌が五輪にとって重要でないというのなら、なぜ、表彰式でメダルを取った選手の国旗を掲げ、国歌を会場に流すのか。

それは、個人が国家と無縁に存在するものではないという、明確な理念を示している。「世界市民」は概念であって、現実ではない。

筆者も国旗・国歌を戦前の「軍国主義」と関連づけて毛嫌いしていた若い時代があった。いまは日本に生まれたこと、太古の昔から無数の先祖が命をつないできてくれたことに感謝し、素直に国旗を受け入れている。

先日、「星野ジャパン」が強化試合で格下の全セに惨敗した。明らかに、日の丸を背負って北京に向かうプレッシャーだ。勝つためには、心身に余計な力が入らないのがいいに決まっているが、自然なナショナリズムは健全である。

むしろ、多くの国民の期待に沿いたいという意気込みは尊いし、無理にそれをなくすほうが難しい。

西村氏の「メダルの数だけを数える五輪にしたくない」という意見には大賛成である。ただし、それはマスコミ、とりわけテレビメディアに対して強調すべきであろう。

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